夕焼雲の彼方に

木下惠介とクィアな感性

夕焼雲の彼方に

映画監督が残したクィアな痕跡を辿り、異性愛規範により声を奪われてきた観客の視線を提示するクィアな「観客」による映画批評の実践

著者 久保 豊
ジャンル 社会・文化  > 芸術・メディア
出版年月日 2022/03/25
書店発売日 2022/04/10
ISBN 9784779516603
判型・ページ数 4-6 ・ 304ページ
定価 3,300円(税込)

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クィア批評を、日本映画史に刻み込む――

映画監督が残したクィアな痕跡を辿り、作品の積極的な読み替えを通して、異性愛規範によって声を奪われてきた観客の視線を提示/共有する、クィアな「観客」による映画批評の実践!



「本書は、現代を生きるクィアな観客の一人として、今や忘れ去られた映画監督の一人である木下惠介の映画作品に対してクィア批評を施す。それは自分が存在しなかった戦前から戦後にかけての過去を振り返り、その場にいたかもしれない想像上のクィアな観客として、その過去に潜在したかもしれないクィアな欲望の再創造/再想像を意味する。それは、一九四〇年代から一九五〇年代、かつて日本のどこかの映画館で木下映画を観ていたかもしれない「私」が映画スクリーンに見出した欲望を浮き彫りにし、読み解く実践にもなりうるかもしれない。本書が探求する木下惠介のクィアな感性とは、現代を生きるクィアな観客としての私と過去を生きたクィアな観客としての「私」とを時空間を超えてつなぎ合わせるポータルと化すのだ。」



「私は日本国内を研究拠点とする映画研究者の一人として、自らのセクシュアリティを通じて得た経験を映画分析の記述に含めていく姿勢を本書だけでなく、今後も重要視したいと考えている。私自身のセクシュアリティや欲望を一人の観客・研究者として隠蔽することは、二十世紀を通じて異性愛中心主義的な物語と表象に隠蔽され続けてきたクィアな観客の映画体験をさらに奥深くへ消し去ってしまいかねないからだ。私のセクシュアリティや欲望の固有性を日本映画史の再構築や映画分析の実践に刻み続けることで、私を含むクィアな観客の存在を曖昧にせず、再び見過ごされ抹消される可能性に対する抵抗を目指したい。私がレインボーカラーの缶バッジを身につけ、男性同性愛者であるとオープンにして国立大学に勤める理由は、そのような目標を共有し、一人でも多くの人間が卒業論文・修士論文・博士論文で探究したいと願うテーマを諦めなくても済むような環境や機会を整えたいからだ。
 本書は性的マイノリティの当事者のみに向けられた映画学の本ではない。自分と似た人々の表象に飢えているあらゆる読者や観客が、自らの欲望を隠蔽することなく映画を観て、肌理に逆らって読み、積極的に「誤読」する遊び心を満喫する楽しさが少しでも伝われば幸いに思う。」(「はじめに」より)






■著者紹介
久保 豊(くぼ ゆたか)
1985年、徳島県生まれ。専門は映画学、クィア批評。京都大学大学院人間・環境学研究科にて修士号と博士号を取得。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助教を経て、現在、金沢大学人間社会学域国際学類准教授。編著に『Inside/Out――映像文化とLGBTQ+』(早稲田大学演劇博物館、2020年)、論考に「SOMEDAYを夢見て――薔薇族映画「ぼくらの」三部作が描く男性同性愛者の世代」(『クィア・シネマ・スタディーズ』晃洋書房、2021年)、“Fading away from the Screen: Cinematic Responses to Queer Ageing in Contemporary Japanese Cinema”(Japanese Visual Media: Politicizing the Screen, Routledge, 2021)、「エヴァの呪縛に中指を突き立てる――『シン・エヴァンゲリオン劇場版 』にみる成長の主題」(『シン・エヴァンゲリオン』を読み解く』河出書房新社、2021年)など。


装幀=畑ユリエ





【本文試し読み】


はじめに


子供の頃から空を見ることが好きで、特に昼間の空は見ていると気が遠くなるほど好きだった。何も青空に限ったことはなく、雨の日の空でも、嵐の空でも、いま考えれば、何故あんなに幼い僕がひきつけられたのかと、不思議に思うほどに好きだった。その中でも一番好きだった夕焼雲のきれいな西の空――。(木下 1987a: 208)

 本書はクィア映画批評、すなわち映画作品に対するクィア批評(クィア・リーディング)を試みる。クィア批評とは、異性愛中心主義的な物語や表象およびそれらの歴史に対して肌理に逆らって読むことで、(視覚的・聴覚的かつ)物語的な快楽への欲望を積極的な「誤読」を通じて見出す実践である。少なくとも筆者にとってのクィア批評はそういうものである。本書の執筆過程において、その実践は自分自身がこれまで一人の観客として、また一人の人間として生きるために必要なものであったことに改めて気づかされた。
 「はじめに」はある程度プライヴェートな角度から書くことを許された空間であることを前提に、私が映画研究に携わるうえで大切にしている姿勢について書き記しておきたい。特に関心のない読者は「序章」まで読み飛ばしていただければ幸いである。
 
 私は本や漫画を読むのが好きで、幼少期から思春期まで家や図書室にあった本や漫画を読み漁った。それだけでは飽き足らず、空想で遊ぶことも多く、頭の中で何十、何百、何千という物語を編んできたように思う。それは幼少期からどこか他の子供たちや姉兄たちとは何かが違うと感じることがあり、自分自身を守るための防衛本能だった、と今振り返ればそう結論づけることもできるかもしれない。家族や友人と話をしている時間を除いて、ずっと頭の中に「ここではないどこか」の物語を描いてきた。読書に加えて、RPGゲームは最高の楽しみであり、『ドラゴンクエスト』シリーズ、『ファイナルファンタジー』シリーズ、『ブレスオブファイア』シリーズ、『大貝獣物語』など、多くの作品をプレイし、自分とは異なるキャラクターを操り、自分が住む世界とは異なる世界を楽しんだ。あるいはその世界に浸る体験を通じて自分を守っていたのかもしれない。
 正確な年齢は覚えていないが、小学校高学年あたりの頃、自宅にあったある一冊の漫画雑誌を読んだ。その雑誌が、自分のセクシュアリティを自覚するきっかけであり、また今も追い求めるクィアネスとの出会いである。それがBL漫画雑誌であった事実は今となれば簡単に分かることだが、当時の少年にとって男同士が手をつなぎ、抱擁し、キスをして、ときにセックスをする描写は衝撃的なものだった。だが、それまで読んだ本や漫画、遊んだテレビゲームの中ですら見ることのなかったそれらの描写よりも強烈に記憶に残っているのが、そのBL漫画雑誌の中で最後に読んだ物語に登場する主要人物の名前が「豊」だったことだ。よく耳にする話のように、そのタイミングで家族が帰宅し、何か読んではいけないものを読んでいたように思った私は、その「豊」の物語を読み終える前にその漫画雑誌を元あった場所に隠した。後日、その隠し場所へ手を伸ばしたとき、その漫画は消えていた。「豊」の物語は未完のまま、どこかへ失われてしまったのだった。
 それ以降、私が物語を空想するとき、そこにはいつも想像上の「豊」の視点があった。それは私が、私と同じ名前であり、しかも自分と同じように同性に恋心を抱いていた若い青年の物語との再会を追い求める欲望の表れだったのかもしれない。自分とは異なるが自分と同じような彼にもう一度会いたいという欲望は、自分が作った空想の物語だけでなく、アニメや映画との関わりにまで拡大していった。私は映画館のない徳島の田舎町で育ったものの、町の図書館のAVコーナーやレンタルビデオショップの棚にあったVHSやDVDに対してまるでクルージングするかのように視線を交換しながら歩き回り、直感でさまざまな作品とフックアップして欲求を満たそうとしていたのだろう。かつて読んだ「豊」の物語はどの映画やアニメにも見つけることは当然できなかった。しかし私は、本や漫画以上に「ここではないどこか」を夢見させ、その世界へ視聴覚的に没入しやすかった映画やアニメへ次第にのめり込んでいった。それでも一人でいるときは、空想の物語を何度も何度も頭の中で作り出し、想像上の「豊」の視点で体感した物語世界を通じて思春期を生き抜いた。
 二十七歳で大学院に入り、最初の指導教員をのぞいて、周囲の院生に対して同性愛者であることをカミングアウトしたうえで研究生活を始めた頃、私は物語を夢想することも、想像上の「豊」の視点で何かを観ることもパッタリとなくなっていた変化に気がついた。それでも生きていけると思っていたのだろうか、私は何も気にせずに修士課程を過ごしていた。しかし、「序章」で述べるように、博士後期課程で木下惠介映画の研究調査をやりたいと考え始めるきっかけとなった『夕やけ雲』を観た際に、かつていつも一緒にいたはずである想像上の「豊」の視点がブワッと再び湧き上がり、主人公の少年が親友の少年との間に築く友愛のなかに異性愛中心主義的な未来に対する諦念と同時に、抵抗の欲望を強烈に感じさせたのだった。本書を書き上げる過程において一つ理解したのは、かつて想像上の「豊」であった視点は、私が木下映画に限らず映画作品に隠蔽されたクィアな欲望を見出すうえで、自らのセクシュアリティや性的欲望を自覚し、率直でいることを可能にするということであった。
 本書は、現代を生きるクィアな観客の一人として、今や忘れ去られた映画監督の一人である木下惠介の映画作品に対してクィア批評を施す。それは自分が存在しなかった戦前から戦後にかけての過去を振り返り、その場にいたかもしれない想像上のクィアな観客として、その過去に潜在したかもしれないクィアな欲望の再創造/再想像を意味する。それは、一九四〇年代から一九五〇年代、かつて日本のどこかの映画館で木下映画を観ていたかもしれない「私」が映画スクリーンに見出した欲望を浮き彫りにし、読み解く実践にもなりうるかもしれない。本書が探求する木下惠介のクィアな感性とは、現代を生きるクィアな観客としての私と過去を生きたクィアな観客としての「私」とを時空間を超えてつなぎ合わせるポータルと化すのだ。
 「はじめに」の最後に、本書の主タイトルに込めた意味と本書で想定する読者について触れたい。
 クィア映画の研究において、『オズの魔法使』(The Wizard of Oz、ヴィクター・フレミング、一九三九年)の劇中歌《虹の彼方に》がしばしば言及される。日本国内においてクィア映画に関する書籍はまだ少ない現状だが、二〇〇五年に出版された『虹の彼方に――レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む』もまた「虹の彼方に」を題名に冠していた。木下映画のクィア批評を行うにあたり、本書の冒頭で引用した、木下が好んだ空の種類に関する随筆の一節と「虹の彼方に」をもじり、主タイトルを『夕焼雲の彼方に』とすることにした。本書は光と影の境界線にある夕焼雲を越えた先に、現代を生きるクィアな観客の一人である私が、かつてそこにいたかもしれない過去の「私」の視線を想像・共有し、木下映画において隠蔽されたクィアな欲望を光り輝かせるものだ。
 私が博士後期課程に進んだ頃、大学院生が視覚文化にみる同性愛やトランスジェンダーの表象をテーマに論文を書こうとすると、指導教員からその大学院生の性的指向やジェンダー・アイデンティティを問われることが苦しく、本当にやりたいテーマを諦めるかもしれないと複数の大学院生から聞いたことがある。竹村和子や村山敏勝がクィア批評の道を人文学の内側から切り開いてきたにもかかわらず、その道へ進む選択肢を諦め、別の道を模索するしかなかった者も多くいるだろう。私自身も一人目の指導教員が時折こぼしたホモフォビックな発言に対して敏感に作笑で応え、大学院で学ぶ環境とその先に続いて欲しいと願った道を断たれないように姿勢を低くして怯えた経験を持つ。彼が有した権力性の前に、私は彼の前では常にクローゼットの中にいることを選んだ。それは大学院という公の空間において生きていくための選択でもあった。
 二〇二二年現在、私が数年前に聞いた状況は改善に向かっていると期待している。実際、映画に限らず、テレビドラマ、小説、漫画、写真、ファッション、絵画、演劇、音楽、哲学といった多岐にわたる分野において、特定の社会において多数派から非規範的とされてきたセクシュアリティ、ジェンダー・アイデンティティ、身体、声などの在り方について関心を持つ大学生や大学院生は少なくない。とはいえ、まだまだ道は長いのも事実である。その道をさらに開拓し、その先に続くかもしれない景色へ立ち止まりながらも生きて辿り着くために私たちは何ができるのだろうか。
 私は日本国内を研究拠点とする映画研究者の一人として、自らのセクシュアリティを通じて得た経験を映画分析の記述に含めていく姿勢を本書だけでなく、今後も重要視したいと考えている。私自身のセクシュアリティや欲望を一人の観客・研究者として隠蔽することは、二十世紀を通じて異性愛中心主義的な物語と表象に隠蔽され続けてきたクィアな観客の映画体験をさらに奥深くへ消し去ってしまいかねないからだ。私のセクシュアリティや欲望の固有性を日本映画史の再構築や映画分析の実践に刻み続けることで、私を含むクィアな観客の存在を曖昧にせず、再び見過ごされ抹消される可能性に対する抵抗を目指したい。私がレインボーカラーの缶バッジを身につけ、男性同性愛者であるとオープンにして国立大学に勤める理由は、そのような目標を共有し、一人でも多くの人間が卒業論文・修士論文・博士論文で探究したいと願うテーマを諦めなくても済むような環境や機会を整えたいからだ。
 本書は性的マイノリティの当事者のみに向けられた映画学の本ではない。自分と似た人々の表象に飢えているあらゆる読者や観客が、自らの欲望を隠蔽することなく映画を観て、肌理に逆らって読み、積極的に「誤読」する遊び心を満喫する楽しさが少しでも伝われば幸いに思う。


[引用文献]
木下惠介『戦場の固き約束』主婦の友社、1987年a。
はじめに

序章 クィア映画批評による木下惠介映画の再評価
 1 愛して、愛して、愛しぬくこと
 2 木下映画の批評言説
 3 クィア映画批評による木下映画の再考
 4 本書の構成

第一章 はじまりの映画――木下惠介のホームムービー
 1 はじまりの映画
 2 ホームムービーの起源と政治的な役割
 3 『我が家の記録』――家族篇
 4 『我が家の記録』――撮影所篇
 5 愛することを恐れる
 6 木下惠介のホームムービーの映画史的な重要性

第二章 天女のくちづけ――『お嬢さん乾杯』にみる偽装の異性カップル
 1 手の届かない美しさ
 2 階級差が形成する冷たい喜劇性
 3 男性同士の相補的関係と同性愛的読解の可能性
 4 「変態」としての原節子――泰子の曖昧なセクシュアリティ
 5 偽りのゴールイン

第三章 リリィ・カルメンのサヴァイヴァル――『カルメン』二部作における高峰秀子
 1 「リリィ・カルメンです。どうぞよろしく」
 2 クリエイティヴィティの起爆剤――木下と高峰の出会い
 3 『カルメン』二部作における西洋性と芸術性の剥奪
 4 詩と夢が織りなすコミュニティ――色彩・音楽・演技・受容
 5 クィア的受容とキャンプ趣味
 6 彼方へ向かう列車に乗って――芸術性が支える「サヴァイヴァル」

第四章 はぐらかしの切り返し――『海の花火』にみる異性愛中心主義の罠
 1 ヒーローは遅れてやってくる
 2 切り返しによる視線の一致と好意の形成
 3 男女間における切り返し
 4 異性愛規範的な期待と重圧からの脱出
 5 みどりとの親近性
 6 船上の抱擁

第五章 青春の美しさよ、さようなら――『夕やけ雲』にみる少年たちの友愛
 1 青春を振り返る双眼鏡
 2 家を継ぐこと、貧困から脱するための結婚
 3 少年たちの友愛
 4 触ること、魚臭さ
 5 霞ゆくフラッシュバックの先に
 6 夕焼雲へ寄り添うカメラ

第六章 クィアな感性の結実――『惜春鳥』再考
 1 『薔薇族』に読む、かつての映画スクリーン
 2 演技としてのホモエロティシズム
 3 会津若松のローカリティと白虎隊の歴史
 4 みどりの白虎隊剣舞
 5 青年たちの白虎隊剣舞
 6 ホモソーシャルな空間
 7 みどりと英太郎――二枚目と心中物語
 8 愛の表現

終章 読みの快楽から、体温のある存在へ

あとがき
引用・参考文献
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