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心理学の学び方―ケーススタディ―(本文よりの抜粋)
- おもしろいことからはじめる
- 自己理解のために心理学を学ぶ
- 目に見えないものをつかまえるおもしろさ
- 手段として心理学を学ぶ
- こころの不思議に向き合う
従来の心理学の教科書で,心理学の学び方について解説してあるようなものはほとんどない。もちろん心理学的に効率のよい学び方は考えられるが,短時間で,確実に知識を増やすことだけが心理学を学ぶ意義ではないし,我々のめざすところでもない。我々のめざすところは,心理学を学ぶことのおもしろさや,学んだ知識をもって人や社会を見ることのおもしろさを伝えることなのである。
そこで,我々自身をサンプルにして心理学の学び方をケーススタディ的に紹介してみたい。心理学を学ぶことに対する姿勢はさまざまである。そこには王道のようなものはない。しかし,自分の学ぶ姿勢を確立することは,学びを促進してくれるし,より楽しく学ぶことにもつながっていく。自分オリジナルの学ぶ姿勢を確立する1つの参考にしていただければと思う。
思い返してみれば,わたしは大学受験に向かう電車のなかで,精神分析学について書かれた新書を読んでいた。当時の私は,心理学と教育学が学べる大学を受験しようと考えていた。それは中学時代に体験した管理教育への疑問や憤りと,高校時代に読んだ本のなかで精神分析学に対する興味が湧いてきたからだった。
希望どおり心理学と教育学を学べる学部に入学したのだが,講義で学ぶ心理学にはどうしても興味をもつことができなかった。そのような私が最初に心理学を「おもしろい」と感じたのは,調査法の実習だった。その実習ではグループでテーマを設定し,実際に調査をしてデータを分析し,レポートにまとめるという作業を行った。そして自分達で考えたテーマがデータに反映されるプロセスが,そしてデータを分析して考察するという作業が「おもしろい」と思えたのだった。それを感じてからは,教育学より心理学,そして精神分析学的なアプローチよりも実際にデータを扱うなかで自分の疑問に答えを見いだしていくアプローチの方に魅力を感じるようになった。
その時に感じたおもしろさというものは,いまだに自分のなかにあるように思う。だから研究者となった今でも,「こうしたらおもしろいデータが取れるんじゃないか」「このデータはこう分析すればおもしろいんじゃないか」と考えることが多い。そこから必ずしも直接的に問題解決へとつながるわけではないかもしれない。しかし今は,自分がおもしろいと思えることが第一で,そこから何かしら現実の問題解決が見いだされていけばいいと考えている。
個々の心理学的な知識も興味深いものだが,心理学を学ぶメリットの1つは,心理学的な考え方や方法論にあるのではないかと思う。そしてそれらを学ぶことは,仕事や社会生活を営むうえで必ず役に立つものだと私は考えている。
どんなことでも,心理学で何か「おもしろい」と思うことができれば,そこから枝葉が広がるようにいろいろな知識を身につけていくことができるだろう。「何かおもしろいことはないか」という気楽な態度で心理学と向き合うのもいいのではないだろうか。
高校時代に,他者とうまくかかわれないことでいろいろと悩んでいた時期があった。自分がよくわからず,自分に自信がもてない…,そんな時に,心理学を学べば,自分のことがもっとよく理解でき,人とのかかわりにも自信がもてるのでは,と素朴に思い,大学では心理学を学びたいと思った。また,高校時代にたまたま読んだ本のなかに,「自己実現」という言葉があった。この「自己実現」という言葉が非常に魅力的に響き,また,その言葉が心理学で扱われていることを知り,より心理学を学びたくなった。また,自分のように悩んでいる人たちを助けることができる仕事(カウンセラー)に就ければ,とぼんやりと考えていた。
大学に入り,心理学の授業はどれもおもしろく感じた。高校時代に授業にはまったく関心がなかった自分がうそのように,心理学の時間だけは一生懸命ノートをとり,いろいろな理論を学ぼうとした。しかし,学んでいくなかで,何か矛盾のようなものを感じ始めた。学習心理学などの基礎的な心理学は,非常に基礎的で論理的であり,表層的な感じがした。かといって,フロイトなどの精神分析の理論(リビドー論や発達論)は主観的に思え,どうしてそんなことが言いきれるのか,と少し信用できない感じがした。
つまり,心理学を自己理解の道具にしようとしていたが,心理学のすべての理論が自分に当てはまるわけではないことを感じたのである。心理学は「学」であるので,さまざまな人々に普遍的に共通する法則を見いだそうとする。1つひとつの理論については,自己理解の手助けになることもあるが,自己理解には直結しないことも多い。自己理解を促進するための1つの枠組みとして理論を参考にする,というくらいの付き合い方が,一番よいような気がした。
心理学は,自己理解のためのものというよりは,他者理解や人間関係の理解といった「人間理解」のためのものであろう。心理学では,時に理論と理論との間に論争があることがあり,それが「人間理解」の見方の違いとして非常におもしろいことがある。たとえば,人間を理性的・論理的とみるか,感情的とみるか(認知と感情の問題),社会心理学における対人魅力の分野での強化論と認知論の違い,などである。このような,理論のベースになっている人間観を知ると,人間を洞察する視点や見方がより深まるのである。
自己理解の方法については,カウンセリングを受けて自己洞察すること,または体験から学ぶことが一番ではないかと思う。自分自身を学ぶためには,「学」から間接的に学ぶだけではなく,自分自身に光を当てて学ぶことも有効である。つまり,「いまここ」での自分自身の体験から学ぶことが自己理解に直結するのである。心理学という「学」は,その時々でばらばらに体験している自己を整理して理解するために役立つものなのである。
3. 目に見えないものをつかまえるおもしろさ(脇田貴文)
心理学にとりつかれたきっかけ…何だったのだろうか。大学入学当初を思い返してみても必ずしも心理学を学びたいわけではなかった。記憶をたどると,そのきっかけは性格検査に関する講義を受けた時だったように思う。いくつかの質問に答えるだけで,なぜその人の性格がわかるのかが不思議で,それをおもしろいと感じた。そして,若干怪しいとも思った。この時は漠然とした感覚だったが,心理学に接していくなかでこの疑問はますます膨らんでいった。
心理学では性格検査に限らず,目に見えないものを測定することが多い。これを測定することは本当に難しい。それは人のこころを何らかの方法で測ったとしても,その測定が正しかったか,適切であったかさえ明確に示すことができないからである。私が心理学にひかれた理由はこの難しさと奥深さだったと思う。「人のこころ」という曖昧なものを,「客観的」に測定するという醍醐味にとりつかれているのかもしれない。
私の専門は,心理計量学(心理測定)である。第9章に目を通してもらうとわかるが,数学が嫌いな人は見るのもいやな記号や数式が目に入る。しかし,断じて数学・数式=心理測定ではない。心理学を勉強するなら数学が必須だといわれることがあるのだが,これは間違っていると思う。たしかに,数学の知識を使うことがあるのも事実である。ただ,数学が苦手だからという理由だけで心理学はちょっと…と敬遠するのであれば,少し思いとどまってほしい。高校までの数学とはまったく違うし,付き合ってみればそれなりにおもしろいものである。
現在,心理学の一番人気はカウンセリングに代表される臨床心理学だろう。これに対して,心理計量学は臨床心理学の対局にあるといわれることもある。つまり,心理計量学はあまり人気がない分野である(かもしれない)。しかし,人のこころを知る,こころを扱うという意味では,臨床心理学も心理計量学も同じで,その方法が若干異なるだけである。少しでも人のこころを測定することに興味があるのであれば,一度心理測定をかじってみるといいと思う。目に見えないものを,どうやってつかまえるかというおもしろさが見えてくるだろう。
私の心理学を学ぶスタートは,つまずきの連続であった。大学受験に失敗し浪人をしていた時,現代文の試験問題にユング心理学についての一節が引用されていた。それがとてもおもしろかったので本を買った。これが初めて買った心理学の本である。もちろん当時の知識では理解できるはずもなく,10ページほどしか読み続けられなかった。
次の心理学との出会いは大学1年生の時の授業であった。しかし学ぼうという気持ちがどうしても高まらず,2回ほどしか出席しなかったと記憶している。当時の担当教員の方には申し訳ないが,おもしろいとは思えなかったのである。
こんなスタートを切った私が,いつから心理学にはまってしまったのかと振り返れば,その1つのきっかけは問題解決に心理学が役立つのではないかと感じたときであるように思う。学部生だった当時,高校生の進路選択に興味をもっており,なぜそのような選択をするのかという理由を心理学の観点から明らかにできるのではないかと,直感的に感じたのである。そして,偏差値に振り回されない選択を行えるように心理学的にアドバイスができるのではないかと,浅はかにも思ってしまったのである。
その後,問題解決はそんなにたやすいことではないとわかったのであるが,このようなインスピレーションを感じたことが,心理学を学ぶことをおもしろくした。心理学を知りたくて心理学を学んでいるのではなく,問題解決の手段を探すために心理学を学んでいたという感じである。私にとっては,このような心理学とのつきあいがベストだったのかもしれない。現在でもそのスタンスは変わらず,やはり私にとっての心理学は,問題を理解したり解決したりするための手段なのである。
人に関する問題意識をもっている人は,その問題解決の糸口を探して心理学というフィールドを学んでみるのもよいだろう。こころを理解することで,問題点がより明確になったり,解決に向けての示唆が得られたりするかもしれない。
私は高校3年生の時,大学受験のため,小論文の指導を現代国語の先生にお願いに行った。第1回目の指導が終わった時には,次から夢分析も並行して行われることになっていた。夢をノートに書き記し,先生に報告した。そのようにして,自分のこころのなかにある異世界の不思議に出会った。大学1年生の時,風変わりなエンカウンター・グループに参加した。そこには,人と人との間に,あたたかさと自由さがあった。そのなかで心理療法家の師に出会うことができ,こころの不思議にもっと魅かれていった。
その後,私は大学院に入り,心理療法家の道を歩みはじめた。クライエントたちの話は,自分が経験したことのないこころの不思議に満ちていた。専門家のたまごとして,何とかクライエントたちの役に立ちたいと,必死に,真摯に,夢中にこころの不思議に向き合った。不思議な研究室だった。どちらかといえば,研究より心理療法家としての実践力向上を重視した毎日であった。もちろん理論軽視ということではない。たとえば,臨床心理学に関する書籍を1週間に1冊読むことと,そのレポートを課されていた。理論以上に重視されたのが,相互啓発的なラーニング・グループ(お互いの知識や気づきを活かし,学びあうグループ)であり,体験から学ぶということであった。たとえば,スーパーヴィジョン(自分の心理療法に関する指導)は基本的にはグループで行われていた。スーパーヴィジョンの主役は事例提供者である院生と指導教員であるが,他の院生もそれを聴くことができた。聴くだけでなく,コメントを求められるため,いつもある種の緊張感をもち,自分ならどのようにそのクライエントにかかわるのか,応答するのかを考え,伝え合うことが求められた。指導教官がいない時も院生が研究室にたむろしていた。自由連想法(精神分析の技法)用の特注の寝椅子に,時には座り時には横になり,お互いに,感じたり気づいたことを伝え合っていた。院生が毎日,エンカウンター・グループを行っているような場であり,絶えず自己を見直すことを迫られる環境であった。それは厳しく,心地よい時空間であった。自己や他者のこころを理解し,限界や可能性を知り,そのこころにふれていく心理療法家として学ばなければならないことがいかに多いか,臨床心理学という枠のなかに積み上げられてきた人の智を,自分のなかに蓄える道のりがいかに遠いかを学ぶ場であった。
こころに直に触れ,こころを知ろうとし,人の智でできることは精一杯行い,できないことに謙虚になる。そして,逆境においても,光を求めるこころを保ち続けようとする。心理療法を学び,行うことは,とてもおもしろく,とても難しいこころとの,自己をかけたかかわりの一形態である。
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